蓮と睡蓮

ずっと勘違いしてるものってあるよね〜。
例えば「土用」を「土曜」って思ってたり、「汚職事件」を「御食事券」って思ってたり。
俺に関して言うと中学までバッタが飛べるとは思ってなかったり、
「鎖骨」を「左骨」と思ってて、しかも右を「右骨」と本気で思ってて、、
みんななんで左ばっかり骨折するんだろ〜??とか(#^.^#)笑
それはまぁ結構昔に事実を知ったんだけど、今日の今日まで(20年以上!?)本気で勘違いしてるものがあった!
タイトル通りですが...『睡蓮』− Lotus & Water lily −  一緒のもんや思てたわw
宮本輝著「睡蓮の長いまどろみ 上・下」     睡蓮の長いまどろみ(上) (文春文庫)  睡蓮の長いまどろみ(下) (文春文庫)
これを読むまでずっと同じものだと思ってたん。^_^; でも意外と俺以外にもいたりして...


この本で見つけた面白い言葉を一つ;『因果倶時』インガ・グジ
仏教の言葉、というか真理の一つで、原因が生じた瞬間に結果も生じているという意味。
これ、凄いこと言ってる気がしたん、初めは。もの凄い残酷な言葉に思えたん。
人も母親の胎内に宿ったときから運命は決まってて、宿命とやらもあり。みたいな。
子宮にいるのよりもずっと以前を考えれば、もっと果てなく続くけれど…
でも今の自分ってものが発生し存在する起源となるのは、普通、
父親の精子と母親の卵子が受精して子宮内に着床するところだろう。
そんな前に決められるって考えただけでも残酷じゃない?
でも、そうじゃなくて。それって単に、『生』を因とし『死』を果とする、くらいのことって考えたん。
そしたら、もはや残酷なんては思わんくて。
」を作る努力をすれば「結果」は自分で作れる、いや、齎されるものなのだと。

 泥棒

こんな言葉も出てきた;「与えられた場所から始めなくて、どこから始めるんだ
矛盾してると思う?俺はその逆だと思う。
与えられた場所を、つまり因として考えるとそのとき既に結果も生じてると考えるのが普通やね。
でも場所は場所に過ぎず、って考えたら因を作る努力さえすれば無論それは結果を生むことで。
んんん〜難しくなってきそう(ーー;)退屈やなw
なんで『因果倶時』が出てきたのかっていうのは…のモチーフがこの譬喩として使われるから。
蓮の花。俺は好きじゃないかもしらん(^_^;)  なんか死者を思い出しそうで悲しい、
でもどこかを感じられる賢そうな花でもあったり。
まっ、そんなこと考える前にせなあかんこと...いっぱい残ってます↓↓
結果は因を作る努力せんと生まれんらしいけん頑張ります、はい。


これだけ書いておいて、運命信じる人ですって言うたら、結局何が言いたいのかわからんなる?笑
ただの読書感想文です。。。以上


UAのアルバム「泥棒」の4曲目「瞬間」 ― この本読んで思い出した曲


p.s.  大阪、戻ってきました。  月、松山帰る日には満月だったのに、もう半分ほど欠けてきてます。